今年の桜です。

旧熊野街道に咲く、今年一番の桜です。由良守應宅なので、やはり自己主張が激しいんだろう。周囲の桜はまだまだよ、ここだけ明るい光に照らされている。桜の前には古い庚申塚があって、優しげな不動明王が睨んでいる。かなりの名工の作だよ。

道標と並んでいるから、熊野詣の人がたくさん通ったんだろう。縁があったら拝んでくれたまえ。この通りだけ、昔から「うと」というから、きっと何か事件があったんやろう。田んぼにはレンゲが咲いている。田ごしらえの季節が始まる。

甘夏を採っている。

毎日みかん採りに忙しくしています。みかんに酔ってしまって、もうヨタヨタよ。年々、年取るからさ、体力がなくなるんだろうね。風力発電の低周波被害も苦しくてならない。原発もそうだけれど、被害があっても誰も文句が言えなくされている。いや、精神的なダメージでやられてしまっている。

私に対する悪口、誹謗だけは延々と続いているから、何が何でもやっつけたいんだろう。前ページでは、一番身近な人からやられていく、と書いた。分断工作と攪乱だ。親が遺言のように言い置いてくれた言葉通りになっている。親の言葉にアダはなかった。

ある程度の所に来たら、甘夏の木は切ってしまえとも言われている。しかしまだその気にはならない。なんせ私と同じ年齢で、私はこの畑の開墾に合わせて、みかん畑で育てられたのだ。やっと最近、自分の人生の目的が分かった気になっている。東京や大阪でサラリーマンをしていたことが夢のようだ。

さあ、これからというときは、もう60を超えていたということだ。あと一息、1町、1haほどの甘夏が収穫を待っている。

八朔を採っている。

八朔を採って、そのまま生で出荷している。これまでだと春先まで、三月まで貯蔵していたのだが、今はそんな手間暇はかけられない。それに味もよくなっている。気候が温かくなったせいだろうね。昔は山の裾に蓆を広げて、八朔やネーブルを山積みして、蓆を被せてシダで覆って、春先まで寝かせてイカラセテいたものよ。

雪が降ったからね。それを大きな松の木なんかが覆って、絶好の貯蔵場にしていた。とても美味しそうに仕上がったよ。贅沢な時代よな。年とともに作業が辛くなってきた。昨日は120ケース作ったけど、もう腰がない。これで赤字だったら、と、ふと心配する。最近、みかん畑に鹿の角が落ちている。かなり大物だよ。

イノシシもしょっちゅう来るし、ワンダーランドや。彼らは私を仲間だと勘違いしているらしくてじゃれに来るのだ。

由良守應の夢のあと

馬術剣道に優れていたという守應は宮内省で馬車係をしていた。なんでも欧米視察の時にロンドンで見た王族の馬車が、煌びやかに見えたんだそうだ。そりゃそうだろう、日本じゃ牛車だもんな。恥ずかしくて、とても比較はできなかっただろう。いくら雅とは言いながら、時代が許さなかった。

本当にこの馬車の御者をして、天皇を乗せて、東京を駆け抜けたんだろうか。さぞ得意になったことだろう。虎の威を借る狐、どころか、夢中だったに違いない。お堀端で転覆事故を起こした時も、皇后をお抱き奉ってお助けしたという。夢のような物語ではないか。

こんな由良町だが、和歌山から追放処分を受けながら、やっとここで居場所を見つけている。よかったら裏の碑文を読んでみてくれないか。青春とは何か? いくつになっても追い求める夢があることさ。彼は友人、知人に恵まれた。あの岩倉具視も、面白い男だと評したという。

人生とは悲しいもので、それぞれに人生がある。開山興国寺はひっそりと秋の気配が漂っていた。

蜜柑の百円売り場をやっています。

由良町門前で、毎年10月頃から百円売り場をやっています。母が始めたことですが、やはり母の方が商売上手で、夕食のおかず代になっていたかな。3月頃まで八朔やオレンジ類を並べています。注文にも応じます。よかったら覗いてみてください。

我家のみかん畑は、わりと広くて、一人で経営するのは本当に大変です。母の遺言は、早く甘夏の木を切ってしまえ、でした。重労働だったんですね。私と同じ62年生ですから大木よ。剪定しようにも、木が太いので、腕がなまってしまう。

そうだ、誰かみかん採りに来てくれないか。3月頃までやっている。日当は安いけれど、アパートの部屋が空いているから個室貸与、食事付き、お世辞付き、農業体験、ということで、どうだろうか。

ナツメを食べている。

去年はイノシシとサルにやられてしまったけど、今年は、何とか少しだけ残ってい た。さっそく齧って食べてみると、とても甘くておいしかった。漢方薬では、夜に良 く寝られるらしい。気分も穏やかになって、落ち着くらしいのだ。

最近、太ってきたので、しばらくはナツメを食べて過ごそう。健康食みたいやない か。無農薬、無肥料、放ったらかし栽培よ。 我家の背戸には、柿や銀杏、レモンや柚子がある。茶畑とか。もちろん裏山は我家の みかん畑よ。一人気ままに暮らしている。

さっき、罠にアナッポが掛かっていたけれ ど、カニばさみから外して逃がしてやった。しばらく俺を見つめていたよ。 今日は酒を止めて、本でも読みながら眠りに着こう。気温の低下とともに、風力発電 の「ズンッ、ズンッ~」という振動が伝わってくる。

ゆら早生を採っている。

稲刈りもようやく終わって、米をあちこちに買ってもらっている。雨の日が続いたから、どうも乾燥、含水率に不安が残る。今は皆さん、米専用の冷蔵庫に保管するから、まぁ、いいか、と思うか。ちょっと失敗したからね。稲刈りにかかりっきりになっていたので、ゆら早生を忘れていた。

イノシシに食い荒らされて、糞まで大量にやられて臭いことよ。明日から、いつもの百円売り場で販売する。よかったら買いに来てくださいな。去年あたりから大量に買っていただくお客さんがいて、すぐ売り切れている。イノシシに半分くらい食べられたから、今年は品薄だね。

周囲の百姓連中もやられていて、だいぶん質の悪いイノシシらしい。イノシシを捕まえるワナが大量に仕掛けられているので、付近の人は注意てください。私の罠は旧式のカニばさみです。今年はハビ(マムシ)が多いから、山へ入る人は少ないと思うけど。

みかん畑の近くに風力発電があるので、しんどいことよ。いい加減に被害者を虐待するのは止めてくれるか。由良町で起こったことは、歴史に残るほど非道な事件なんやで。何が悪いのか、さえ分からない人たちは、心無い人と言われるんやろうね。風力発電を撤去してくれ。

盆にはかわいい妹たちが来てくれて

盆には灯篭焼きという行事があって、今年も年忌のある人が二人いて、灯篭を二つも作らないといけないのかと思案していました。二人とも100回忌だからね。とうとう8/15日の施餓鬼に拝んでもらうことにして、今年は勘弁してもらった。来年は親父の7回忌だから、どうしても法事と灯篭を作らないといけない。

長男の義務、というか務めよ。今年はコロナ禍で、例年の火祭りは中止だという。妹達には、たくさん溜まった塔婆やお札を、深夜に行われる灯篭焼きに持って行ってもらった。私は留守番よ。あるサイトにあったという写真を私に見せて、「これ、お兄ちゃんとちがう? パンツが見えている」という。どうやらそのようだ。

若気の至りで、20年ほどこんなことをやらせてもらっていた。暇だったからね。若いころの話よ。写真にしてみると、私も年取った。妹たちも、かわいくなったものよ。襖の文字は菜根譚の一説です。襖一枚につき、一文字だけ読めない当て字にして書いてある。はてどう読むのか? それが臨済禅の教科書、修行だというのだ。

それと、読もうとする人がそれなりのものでないと、字が読ませてくれないという。なんとも厄介な無門関よ。さらにこの書は「家庭有 個真佛 ~ 」から始まる。目黒絶海和尚は、我家の有様を見て、この書をしたためたに違いない。皮肉やなぁ、と気が付いたのは、割と早い時期からである。忠告してくれていたのだ。

今ではその意味がよくわかる。もう遅いよ、いや、まだ時間は残されている。たくさんの人に生かされてきた思いがよぎる。私も随分頑張ったつもりなのだと信じたいのだ。

百姓の盆よろこび

農家には昔から伝わる百姓言葉がある。稲作は今、花掛け、と言って白い花が咲いている。田植えをしてから刈り取りまで三月と十日。花が咲いたら一月後に稲刈りとなる。オッと、それまでに、籾に、コメになる乳がたまっていく。この乳を吸いにカメムシがやってくる。ウンカや紋枯れ病もある。10日後に消毒やな、と思いながら暑さに参っている。

今年は梅雨の長雨に祟られて、どうも出来が悪い。我が家では、1反に、8俵(60㎏×8)を目安にしている。10俵採れる時もあるけど、まぁ20年に1回やね。山から田んぼを見下ろすと、スカスカの稲穂が、地面の土まで見せてくれる。6俵あったらよいとせなあかんね。私が子供の頃は、せいぜい6俵だったんだから、毎年出来過ぎたんだろう。

ミカンもよくできている。もうイノシシが来て、ミカンを食い散らしているから油断も隙もない。かなりやられたよ。みかん畑の上では、地滑りが来て、農道が吹き飛んだ。最初は3mほどの段差だったものが、今日は7mほどの崖になっていた。毎日、地下の、すべり面に沿って畑が動いている。せっかく農道を修復しても、すぐにまた破壊されてしまう。

土木科を卒業したからね。山全体がすべり面に沿って動いていく、地滑り現象はよくわかっている。そうだ私は建設コンサルタントをしていたのだった。杭を打っても止まらないのさ。普通、百姓は盆が来ると、やれやれ半分まで来た、と一息つく。昼寝の習慣も百姓の特権よ。お墓の掃除もあるし、難儀なことになっている。

開山堂の火祭り

山からエニシダを刈り取ってきて、長さ4mほどの大たいまつを作る。男四人が、それぞれ二人ずつに分かれて、太いロープを持って、足で蹴り込みながら松明を締め上げる。私が子供の頃までは、80貫(3.75kg×80=300㎏)もあったそうだ。農協で測ってみたらしい。私が担いだ時には100㎏程の小振りになっていた。

半分以下の規模になっているのは私でも分かった。それでも重かったことを覚えている。叔母や大叔母たちは、私がそんなものを提げに行ったというので驚いていた。百姓の人たちの荒くれだというのだった。事実、私の叔父が、我が家で初めて土俑(大たいまつ)を担いだらしい。その人の50回忌の灯篭を持って、私は火祭りにお参りしていたのだった。

興国寺の灯篭焼きである。親父は三男坊で体が弱かったから、とてもそんな場面には縁がなかったらしい。写真に写る大たいまつは一本300㎏よ。それを一人で担いで放り投げたりして朝方まで遊んだというのだ。8/15日の満月の夜の奇習よ。舞台は三昧場で古い火葬場よ。真ん中には南北に三途の川があった。

S20年、グラマンに奇襲されて撃沈された艦船の戦死者100人ほどの骨が白く残っていたものよ。これも地域ではタブーになっている。私が子供の頃は、恐ろしい話として、ちょいちょいと聞かされてきた。私たち子どもは、その原っぱで飛び跳ねて遊んでいたのだ。無邪気なものよ。この風習もすでにすたれている。私が最後の世代だったようだ。

確かにあの頃は貧しかった。しかし人々に熱気があった。何をしても面白かった、と親父の友達連中は言っていた。戦争から解放されて平和をかみしめていたんだろう。ちなみに、こんな重い大たいまつを、若者たちは取りあった、「ワシが担ぐ」といって一人担ぐと、暗闇から、後ろから誰かが尻ケツを足蹴りしに来たという。

それでもみんなが夢中になって担いで遊んだというのだ。恐ろしい話よ。今、風力発電の被害で、地域の人々はすっかりアホになっている。私一人が「苦しい」と被害を訴えているが、すべての人が私を憎んでいる。被害者もいるだろうにね。何がこうまで人々を狂わすのか、私にはまだ分からない。S20年、8/15日の様に解放されることがあるんだろうか。

その時、やはりあの時と同じように、何をしてよいのかわからずに、座り込んでしまうのだろうか。いったい何をしてきたんだろうかと、うつろになった視線をさまよわせて。人は、何も考えないんだよ。こんな行事を仕掛けることで、地域社会を維持してきた。各地のお祭りは、ほとんど形骸化して、アルバイトさんの手を借りて、やっと行事にしているでしょ。

そのうち外人さんが参加するだろう。その時、宗教は関係ないのか。とうに彼らは宗教には関心はありません、といっている。いやな気配がする。